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古市了一


古市 了一(ふるいち りょういち、 1958年〈昭和33年〉11月19日 – )は、 日本の青年実業家。ロック歌手。Jポップ歌手。倉敷名物 倉敷うどん ぶっかけ を販売する株式会社ふるいちの代表取締役会長(第2代社長)。家業であったうどん屋さんを年商14億、従業員370名の企業に育てあげ、後進に託した。

目次[非表示]
  • 1 概要
  • 2 来歴
    • 2.1 出生
    • 2.2 幼少時代
    • 2.3 学生時代
    • 2.4 高校卒業後
    • 2.5 家業から企業へ
      • 2.5.1 ふるいち維新
      • 2.5.2 CI
      • 2.5.3 冷凍うどん
      • 2.5.4 うどん道
      • 2.5.5 第3位
      • 2.5.6 200万食
      • 2.5.7 平成の蔵屋敷
    • 2.6 青年会議所運動
    • 2.7 日創研・中小企業家同友会
    • 2.8 チーム絆・倉敷
    • 2.9 燦々会
  • 3 略歴
  • 4 経営理念
    • 4.1 根本理念
    • 4.2 経営ビジョン
    • 4.3 使命・目的
  • 5 施策
  • 6 感性・センス
  • 7 人脈
  • 8 人物像

概要


商業を営む家系に生まれ、幼い頃から商人の素質を発揮する。倉敷商業を卒業後、ロック歌手を目指してバンド活動に熱中。イエロー、不死鳥など倉敷で人気ロックバンドのリードボーカリストとして多くのファンを魅了。1980年代前半に惜しまれながらも解散。その後、一旦音楽活動を休止し、家業のうどん店の発展に注力する。代表取締役就任後、CIを含む多くの施策を実施し成果を上げた後、音楽活動も再開した。

来歴


出生

父親の生家は吉備郡真備町二万(現倉敷市真備町二万)で乾麺製造販売を営んでいた。戦時中の企業合同で倉敷市へ移転(現備南物産)。その後倉敷市で饅頭・うどんの製造販売を営む古市博(現株式会社ふるいち取締役会長)の長男として1958年に生まれる。当時、父博は神戸で婦人服メーカー・ワールドを木口、畑崎両氏とともに創業した(1959年)。博とワールド初代社長木口衛はいとこ同士である。創業時の数年間の苦楽を共にした後、幼少時の了一の教育のため、また家業(博の姉夫婦)の饅頭店の手伝いのために帰倉。

幼少時代

父博が帰倉後再開した饅頭の製造販売は爆発的に売れた。「ふるいちのふーまん」を食べずに育ったものがいないと言われるくらいに。
お店のあまりの繁忙で、両親ともに了一にあまり手をかけられなかった。了一は幼い頃から活発で、目を離すとすぐにどこかに行ってしまう。結果、未就学児童当時は商店街のすずらん灯に紐でくくられて育った。ダンボールで囲んだ僅かなスペースの中、紐でくくられた了一を、道行く人が遊んでくれてた、と父博は回想している。今の時代なら児童虐待だなと大笑いして。

学生時代

やがて、ふるいちの商売は饅頭の他にうどん、焼きそば、お好み焼きなどもお店で出すようになり、またお店も本店から仲店、出店など繁盛を極めた。小学生でお店を手伝うようになった了一。時給は5円。幼い了一vs商売の達人博、賃上げ交渉の結果、了一は手打ちうどんを覚えることを決意。小学生の幼い決意であったが、うどんを打てるようになったことにより了一の時給は飛躍的にアップしたという。しかし、今振り返ると、労働力を確保したい父博にまんまとはめられたのである。
当時父博は麻雀中にざるうどんを食べるのが常だったが、ある日、食事作りを命じられた了一はざるうどんを丼に入れ、たれをその上にかけて具もその上に載せて持っていく。麻雀をしやすいようにとの子供なりの配慮であったが、それを食べた博は「これ、店で出そう!」と言ったという。名物倉敷うどん「ぶっかけ」の誕生の瞬間である。
高校時代の了一は、同級生にぶっかけうどんを作っては食べさせて感想を尋ねて回ったという。「これ、僕がつくったうどんなんよ。美味しいじゃろ。」と。どう?と聞かずに美味しいじゃろという商売のセンスは、当時から如何なく発揮されていたようだ。
また高校時代、クラブ活動でしていた重量挙げではインターハイに出場。現在の頑強な身体はそのころから鍛え上げられたものである。

高校卒業後

メジャーデビューを目指してアルバイトをしながらバンド活動に熱中。地元倉敷でロックバンドを結成し活動を本格化させる。ロックボーカリストとしての地位を確立。多くのファンも獲得し、将来を嘱望された期待の星であった。1981年に長崎歌謡祭に参戦。残念ながら全国デビューには至らず。この年の長崎歌謡祭グランプリ獲得後、全国デビューし超アイドルになったのは松本伊代ちゃんである。この長崎音楽祭出場は了一にとって一大転機となり(後述)、家業の発展に力を尽くす方向に人生の舵を切っていくことになる。

家業から企業へ

音楽活動を一旦休止した了一(当時25歳)は猛烈に家業、商売の勉強へ力を入れた。しかしやがて家業を発展させてから再び音楽活動を再開させる決意を心の奥に秘めて。

ふるいち維新

了一は家業に入り、幼い頃から手伝った馴染みの仕事の感触が蘇った。そして、この家業を事業化し企業へと発展させなければならない。多くの勉強会、セミナーに参加し、先生や先輩の話に耳を傾けた。味への追求、今という時代のマーケティング、スタッフの育て方、待遇改善、会社としての経営理念などやりたいことが山積み状態に。そして、28歳のとき、了一は父博に自ら宣言する。「僕が社長になるから。」その時まだ50代半ばで働き盛りだった博も、息子の宣言に唖然としながらも、その熱意を認め社長を譲ったという。

CI

ぶっかけうどんの企業化にむかって、了一は深く考えをめぐらせていた。いったい自分たちは何者なのか。深く考えをめぐらせるとき、空を眺めて流れる雲を見るのは了一の常である。
粉屋、乾麺屋というのが自分のルーツ。そして、甘いものに飢えていた時代には饅頭を製造販売して大ヒットした。ふ~まん。そしてぶっかけの文字が浮かんでは消える。○の中にふを入れてみる。ん~、なんだかものたりない。○の中にぶを入れてみる。これも当たり前過ぎてしっくりとこない。そして、何日も思いをめぐらせたある日、○の中にふ、○の外側にてんてん…、「!」
これだ!と思った。硯と墨と筆、半紙を用意し高ぶる気持ちで墨をする。そして何回も何回も「ふ」の文字を書いた。機械で書いたものではなく人間が書いた「ふ」。ちょっとかすれたかんじの「ふ」。日本特有の文化、決して西洋にはない「わび・さび」が出ている。
このCIの経験は了一に、自分たちのルーツから現在に至るまでと、そして、自分たちのこれからの進むべき道のりを考えるよい機会になったと思われる。

冷凍うどん

店舗メニューでテイクアウトの増加を考察したとき、麺の冷凍ということはいずれクリアしなければならないと考えていた。いつでもお店と同じものが自分の好きな時に食べられる、こんな素敵なことはないだろう。だからこそ、冷凍麺を製品化するなかで、絶対に妥協はゆるされない。了一の数え切れない試作と研究の結果できあがったのが「ぶっかけ凍らし麺」とその商品群である。株式会社ふるいちはこの商品開発と冷凍工場設備を自社で持つことにより、うどんメーカーとして飛躍をとげた。そして、その後に「ふるいちの毎月おとどけ便」なるぶっかけうどんの頒布会員組織を発足させ、その冷凍うどんの生産能力を如何なく発揮することになる。

うどん道

究極のうどんに賭けた男の物語として、フジTV系ネットで全国放映された番組のタイトル。何よりもまず安心・安全であること、そしてかつ美味しいことを実現させるべき素材を求めて、社長古市了一は全国、そして海外へ旅にでた。かねてから構想していた旅、必ず実行すると決めていた旅。自分たちが使っている材料にまでも、そこに関わる人たちの想いや苦労を自分自身の目で確かめるためである。その究極のうどんを求めた全国、海外への旅がテレビ番組として編集され、2002年に「うどん道~究極のうどんにかけた男の物語」として全国放映された。その時に開発された究極のうどんの商品名は「蔵屋敷にふる雨」といい、黒瓦をイメージしたぶっかけ、白壁をイメージした茶碗蒸しタイプ、そして、澄みきった雨をイメージした汁うどんの3点セットである。材料の仕入れが可能なかぎり提供し、大好評を博した。素材の入手が安定的に得られないことなどから、レギュラー商品への定番化は見送られたが、了一のかねての夢を実現した商品として隠れたファンも多い。

第3位

地元の情報を伝えるフリーペーパーであるリビング新聞。このリビング倉敷が行った「読者が選ぶ倉敷のいいところはここ」アンケートで「ふるいちのぶっかけうどん」が第3位に。ちなみにぶっかけうどんより上位は美観地区、そして、倉敷天領夏まつり。あの星野仙一さんよりもぶっかけうどんが上位に入ったことでも、倉敷における「ふるいちのぶっかけうどん」の知名度のすごさがうかがえる。

200万食

一年間に食されているぶっかけうどんの数。一日平均5479杯!ぶっかけうどん以外のメニューももちろん食されているので、ふるいちのうどんは年間かるく400万食以上食されている計算だ。

平成の蔵屋敷

了一が考える次世代への贈り物。多くの方に「ぶっかけうどん」を食べて頂き、倉敷の名物に育てあげて頂いたことに心から感謝し、生まれ育ったふるさと倉敷に感謝し、すこしでも皆様のお役にたちたいと考えている。今までの美観地区の蔵屋敷は先人が残した建物が中心。これから自分たちの手で残さなくてはいけないもの「平成の蔵屋敷」。それが食べ物なのか建物なのかは分からない。自分たちがこれから次の時代にのこす「平成の蔵屋敷」をつくっていきたいという思いを了一は過去何度か語っている。

青年会議所運動

あまり気が進まなかった青年会議所運動。何度も何度も度重なる入会の勧誘を断るに断りきれなくなり、年貢の納め時と入会したのは自身35歳の時であった。それまでも様々な団体で勉強、自己研鑽を積んでいた了一は、ここ青年会議所でもそのリーダーシップを発揮し、多くの仲間をつくり、多くの後輩に影響を与えている。
入会後すぐに日本青年会議所への出向、そして、地元倉敷青年会議所では入会後3年目にして専務理事という事務方の要職に抜擢された。翌年、岡山ブロック協議会議長と倉敷JC副理事長を。卒業年度(1998年)には、理事長候補筆頭に名前があがる。倉敷JCを二分する総会クーデター寸前まで発展するが、了一の英断(理事長職断念)によりLOM(倉敷JC)の分裂騒動に終止符をうち、自身は日本青年会議所国際交流委員会の筆頭副委員長として全世界を飛びまわることになる。この年、JCI(国際青年会議所)マニラ世界会議のジャパンナイトにて、了一がリードボーカルを務めるRio&Be in Voicesのアカペラグループがステージを大いに盛り上げた。
また、この日本JCへの出向は、全国に多数の親友をつくり了一の人脈を一層豊かにしたことでも貴重なものになっている。青年会議所運動は人生の中では非常に短期間であったが、そこで得たもの、また、人に与えた影響は計り知れない。

日創研・中小企業家同友会

青年会議所運動がまちづくりボランティアを通じての研鑽であるのに対し、了一が企業活動そのものの中での研鑽を積んだ団体。
当然のことながら、企業活動そのものとして、自身の企業家、事業家として考えを深めることに対して大きな影響があったと思われる。また、これらの団体でも了一の人柄、考え方に対する人望は厚く、その活動の中で常に中心的な役割にあり、日創研グループである岡山経営研究会では第二代会長を務めた(2004~2005年)。

チーム絆・倉敷

東日本大震災をきっかけに、地元の有志に呼びかけてつくったボランティア団体。隊長を務めている。岩手県大船渡市へ2度の炊出し、募金活動、東北産品を倉敷三斎市や各イベントで販売することによる経済的支援を行ってきた。現在は、個人の起業を全面的にバックアップし雇用を創出する事を目的としたプロジェクト「被災地へ屋台を贈ろう」を立ち上げ、PRのチャリティーライブも実施した。

燦々会

昭和33年生まれにちなんでさんさんかいと名付けられた会。経済界や芸能界・文化界などでの錚々たるメンバー。全国におよそ60名くらいいる。会長は月桂冠社長の大倉治彦氏。

略歴


倉敷市出身(1958年)
倉敷東小
倉敷東中
倉敷商業高校
ロックバンドイエロー、不死鳥、ボーカリスト
株式会社ふるいち代表取締役(1986年~)
株式会社ふるいち代表取締役会長(2020年~)
社団法人倉敷青年会議所専務理事(1996年)
社団法人倉敷青年会議所副理事長(1997年、1998年)
社団法人日本青年会議所岡山ブロック協議会議長(1997年)
社団法人日本青年会議所国際交流委員会副委員長(1998年)
Rio FURUICHI&Be in Voices アカペラグループ ボーカル
日創研岡山経営研究会会長(2004年~2005年)
六本木男声合唱団
燦々会
Rio.Mario ツインボーカルグループ
創作歌劇団 くらしき
チーム絆・倉敷 隊長

経営理念


創業の精神~根本理念~三つの誓い~経営ビジョン~使命・目的から構成される株式会社ふるいちの一連の経営理念が明文化されwebサイトに掲載されている。

根本理念(創業の精神から引き継ぐ私たちの心の原点)

 食業を通じ、必要とされる人になり、人の役に立つ
 お客様に必要とされる人になり、お客様の役に立つ
 共に働く仲間に必要とされる人になり、仲間の役に立つ
 社会に必要とされる人になり、社会の役に立つ
この世に生まれてきたからには、自分の命を、世のため人のために役立つ存在にしてやらなければ、生きている甲斐がないじゃないか。
人は、誰かに自分を認めてもらいたいし、自分自身をも認めたいと願っています。このことは、人の役に立ち、心からの言葉で感謝されることで実感をします。その為には、あてにされ必要とされる存在であることが大切です。あなたに会えて良かった。あなたがいてくれるから嬉しい、助かる、と人から言われること。お客様に、共に働く仲間に、そして社会から真に必要とされることです。私たちの職業、食べ物の製造提供業すなわち、「食業」を通じて自分自身の命を、「役に立つ存在にする志」にチャレンジすることを、私たちの心の原点とします。

経営ビジョン(ふるいちの将来の夢、あるべき実現の姿)

ぶっかけうどんを真の倉敷名物に 全国へ そして世界へ

使命・目的

1.名物うまいものづくりで地域食文化を創造する
2.地域文化と共に名物うまいものを全国世界へ伝える
3.地産地消を目指し日本の自給率の向上に貢献する

 

施策


常に社業に関連すること、直接的間接的を問わずアンテナを張っており、その情報をキャッチする感性とスピードは秀逸を極めている。物事に対してのこだわりの部分、また、外してはならない核心部分を見抜く力が優れ、そのことに対しての研究が並外れている。実現への強い信念も持ち合わせており、社業の発展に寄与している。
他店ではまだ24時間営業も見られない頃から、「始発から終電まで」を合言葉に商店街の店舗で早朝開店、深夜閉店の店舗を作ったこともある。まちづくりの観点からも、そういうお店が商店街に必要と強い信念でスタッフを口説き実施にこぎつけたことは知る人ぞ知る。
また、セルフ・トッピング形式の店舗開発もいち早く行っており、マイナーチェンジを繰り返しながら現在のサービス形式を確立した。他大手チェーンが模倣し多店舗展開をしたこの形態も、ふるいちオリジナルであると言われている。
ぶっかけ亭ふるいちイオン倉敷店での売り上げの坪効率は驚異的であり、隣接する店舗であるあの世界のマクドナルドが舌を巻いた話は有名。これも、ここには詳しく書けないが、実は上述した了一の見抜く力と研究心、そして実現する強い信念の賜物である。
時代の応じてさまざまな分野にチャレンジし、業種業態を開発している。
そば居酒屋の生成りそば方丈ふるいち、うどんとらーめんのニッチを探したらうどん、和風のスイーツである餡さんぶる、倉敷初のつけ麺専門のお店であるつけ麺まるぶなど。研究開発のため一旦閉店し今後の再開が楽しみな案件もあり、また現在好評営業中のつけ麺まるぶも今後ますますの進化が期待されている。
2020年、長年の右腕であった栗坂孔之に社長を譲り、代表取締役会長に就任。

感性・センス


時代を感じる嗅覚は天下一品である。店舗開発に関しては独自の基準を持っており(非公表)、一説によるとコンサルタントの逆張り(コンサルの勧めの反対を実施)との噂もあるとかないとか。いずれにせよ、そのセンスは卓越しており、流行り廃りを的確にとらえ、コンサルの進言さえ時代遅れと感じるのは当然の結果であろう。
また、現在では運転免許証の中に個人情報を登録している世の中であるが、今から十数年年前にそのことを予言していた。財布の中であらゆるクレジットカードや免許証、会員証、サービスカードなどが溢れかえっていた時代に「いずれは、これら全部が免許証の中に入ってしまって、一枚になるんよな~」とつぶやき周りを驚かせたことがある。今から十数年前にそのようなことを考えるものはいなかった。

人脈


地元財界では若手ホープ的な存在。
岡山経営研究会、中小企業家同友会、倉敷青年会議所などに属した関係で同世代の経営者を中心に、また社業そのものの関係でフードビジネス業界、音楽業界などあらゆる分野で幅広く交流がある。災害ボランティア活動でもそのリーダーシップを発揮、内外より信望を集め評価されている。人柄や考え方を信奉し尊敬する者も多く、年代性別を問わず周りから愛されている。
燦々会会員、六本木男声合唱団に属し多くの海外公演にも参加した。

人物像


食べ物

好物はうどんである。好きな言葉は「ぶっかけうどん」。他店でうどんを注文する際には必ずざる系と汁系の2品を注文する。そして汁まで完食する。食べ物に関しては和洋中すべてのジャンルに興味を持ち、また、食欲も旺盛。若い連中を連れて歩いても、最後まで食べているのは古市である。<・

スポーツ

高校時代はウェイトリフティングのインターハイ選手であった。今の胸の厚みはその頃の名残りと思われる。
あまり知られていないが、野球では左打ちである。
ゴルフの腕前は相当なもので、知らず知らずのうちにシングル級になったと周りを驚かせている。

愛車

ワールド創業者木口衛より引き継いだセルシオに乗っていたが、悪質な悪戯で火災に遭い、現在はクラウンに乗る。

語録

「僕はね、うどんの作れるシンガーにはなりたくないの。いつまでも、歌の上手なうどん屋さんであり続けるよ。」
「ぶっかけも歌もすべて倉敷というものをどこか意識している。他県へ出店もするし通信販売もするけれど、ウェルカムto倉敷が基本の精神だよ。」
「評価はね、自分ではしない。評価は人がしてくれる。しかも、何も言わずに。みんなね、じっと見てる、人のことを。だいたいの人は自分自身の評価よりも人の評価の方が下。人は自分に甘いもんだから。」
「周りから見て危なっかしいなぁ、と思う人は要注意。うまく乗り切っていても、まだ一大事になっていないだけのこと。いつかきっと大事件を起こす要素を持っているということだから、気をつけてなきゃ。」
「テレビを見てて、これじゃいかん、と思ったよ。生産者が言ってるの、出荷はするけど家族には食べさせないよって。その時思った。自分の大切な家族に食べさせたいものを出さなきゃ、って。うちは絶対にそういうものをつくろうと。」
「あの頃の何の根拠もない絶対的な自信はいったい何だったんだろうね。長崎音楽祭に出てみて分かったことは、歌の上手な奴はナンボでも山ほどいるということ。その中で一部の人間だけが引き上げてもらって、お金をかけてもらって初めて、それ以上にもっと磨かれるということ。歌もセンスもなにもかも。じゃ、僕は自分で自分に投資できるようなろうと思った。それには、まず、商売を発展させるしかないなと。そして自分磨きの投資をしよう、と。長崎歌謡祭の参加はそれが分かったという意味で人生の一大転機。」

その他

コーヒーは飲まない。お酒は適度に飲む。
前歯と前歯の間があいている。
一部青年会議所の仲間が「うどんの王様」という呼称で、呼ぶが極めて少数派である。